ご機嫌いかがですか
メイもんです
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11月14日の記事の続編として
文芸雑誌に掲載されていた真山 仁さんの随筆と
その中の 坂東玉三郎さんの言葉を抜き書きします m(_ _)m
二十一世紀に入り、
美の真髄を感じ取る人が減ってきたと、玉三郎は嘆く。
「 美を感じる器は、私は魂だと思います。
自らの醜さを自覚した上で、魂のあり方で
美を感じる必要があります。
ところが最近では、美に感動したという多くの人の
美しさへの反応が、ムードに付和雷同しているだけに見える。
つまり理解した気になっている 」
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このあとに
SNS上に挙げられた、
“ 美”に感動した “ という人々の様子について
具体的に書かれているのですが、そこは飛ばします m(_ _)m
美を追究する人は、己の醜さを自覚している。
それは、辛いことではないのだろうか。
「 辛いですね。だから、何かに憧れたり、
ひととき、我を忘れる時間を作ろうとする。
それによって、醜い自分や居心地の悪さから飛躍できる 」
芸術家は、己の醜さからの解放を求め、
結果的に美を生み出すことになるのだ。
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“ 美を追究する人”を 拡大解釈しますと
芸術家に限らず 普通の人も含まれることでしょう...
わたしたちは
身だしなみや、住んでいる環境のことや
趣味の習い事などでも “ それなりに” 美を追究しています (*^^*)
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「 憧れる 」の語源は、「 あくがる 」だ。
「 あく 」とは、場所を指し、「 かる( がる ) 」とは
「 離れる 」を意味する。
つまり、ある場所から離れるという意味だ。
肉体はその場に止まっても、想念は飛躍する。
そんな想いが、憧れを醸成するのだ。
玉三郎の舞踊は、立ち姿から一挙一投足に魂がこもっている。
肉体のみならず、衣装の端々までが、生を得たようにその場を支配する。
やがて、それは劇場を飲み込み、その時空をまるごと無我の境地に
誘うと言われている。
その舞踊の極意もまた、憧れにある。
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「 劇場を飲み込み、その時空を
まるごと無我の境地に誘う 」舞踊。。
そのような舞踊( 芸術 ) の極意 ・“ 憧れ ” とは、
話に聞く“ 幽体離脱 ” の感覚に 近いような感じでしょうか。。
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「 人間は、常に何かに縛られている。
きちんと座っていなくてはならないなどの
日常の小さな事はもちろん、社会のしがらみにもがくとか、
日本という国から抜け出せないなど。
それは、肉体的、現実的な縛りです。
本当は、魂は自由なはずなんですが、
日々の拘束によって魂も縛られていく。
そこから一瞬飛躍するというか、
飛ぶ、あるいは飛ぶことによって解放される。
舞踊とは、ある種の引力からの解放なんです 」
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「 舞踊とは、
ある種の引力からの解放 」
玉三郎さんの語りなので
「 舞踊とは 」と仰っているわけですが
「 芸術とは
“ 憧れ ” に導かれた
ある種の引力からの解放 」
というふうに
広い意味で わたしは受け止め、
その言葉をしみじみと 味わったのでした。。
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お付き合いいただき
誠にありがとうございます m(_ _)m
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