うたと からだと わたし

キャリアチェンジして7年目。還暦越えました!▪ 保育補助員の日記です。

ひいお爺さんの人生...❷

ご機嫌いかがですか

メイもんです

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朝の緑道の木々

叔父さんの遺してくれた、


わたしの“ ひいお爺さんの人生 ” のお話をメモします

 

◆ 明治16(1883 ) 年

 農家の次男として生まれる

 

◆ 6歳で近隣の農家の養子となる

 

◆ 16歳で年上の女性と結婚、

 男女合わせて 5人の子供を授かる

 

◆ 22歳で養子縁組を解消、

 ただし、長男と次男(母の父親)には養家の姓を継がせる

 

◆ 大正初期  (1914年前後 )

    農業に見切りをつけ、実の兄を頼って単身上京

 

◆ おそらく、

 田舎に帰る兄の後釜として

 兄の勤めていた“ 宮家 ” に就職

 

 その数年後に、家族を東京に呼び寄せる

 ( 以降、25年ほど料理人として勤め上げる )

 

*****

 

お話は まだ続くのですが、

今回はここまでの部分に関する

わたしの感想と考察を述べたいと思います m(_ _)m

 

“ 萬吉じいさん ” の人生は

“ 田舎と都会” の両方に 関わりがありました

 

両親とも東京育ちで

田舎を知らない わたしには

その両方を味わっている萬吉さんが羨ましく、

 

さらには

一流の家系に仕える料理人として

その文化的な暮らしの空気を肌で感じつつ

 

養母と自分の家族と

揃って東京で暮らせたことも

賑やかで 素晴らしいなぁ..と思いました

 

一方で

6歳で養子となり16歳で結婚、

22歳で養子縁組の解消をするという

類まれなる (? ) “ 史実 “  から考察すると、

 

養子となった小学生時代から

その卒業後、農業を生業とした20代までは

きっと精神的な苦労が多かったものと想像できます

 

叔父さんの文章にある、

養父に関する聞き伝えでは、

 

養父が ”大酒飲み “ で

堅物の萬吉じいさんと合わなかったらしい。。

 

しかしながら

そんな養父の姿を反面教師として

酒もタバコもやらないと決めたのかもしれませんね^^

 

(  その次男のわたしのお爺さんは

 仲間と共に町工場を経営をした人で、

 

   酒とタバコを嗜みながらも健康長寿でした❣️

  晩年は旅行を楽しみ 笑顔が素敵だったのを覚えています^ ^ )

 

さらに養父は、孫のできた頃に

米相場に手を出して借金を作ってしまい

親戚に頭を下げて、その穴埋めを頼んだのだとか。。

 

金銭の支援の大半は

萬吉さんの妻の実家がしたらしく

そんな経緯で、養子縁組の解消につながったのでしょう

 

けれども、養父母との関係性は

それによって こじれたわけではなく

 

長男と次男には養父母の姓を継がせていますし

養父が東京に遊びにも来たし、養母の最期は東京でした

 

わたしの母( 86 )は、萬吉じいさんに連れられて

浅草にある(養父母の)お墓参りに何度か行った記憶があるそうです

 

そこで、わたしの感想なのですが

6歳で養子になったという( 子どもにとって辛い)出来事は

色々と学ぶことが多いゆえ 人生に豊かさを もたらしたのかも。。

 

と言いますのも

30歳になったころ

農業を生業とすることに見切りをつけ

 

実家の兄を頼って上京し

” 宮家“ に就職したということは

 

実家の家族の愛情を感じますし

萬吉さん自身が実家の姓に戻っていたことは

勤め人の弟として紹介されるのに都合が良かったでしょう

 

ただ、この就職の直接の恩人は

当時の宮内省に設置されていた御歌所の歌人

この方が、田舎にある大きな神社の宮司さんの縁戚だそうです

 

“ 萬吉じいさん ” が

退職後も、その歌人のところへの

盆暮れの挨拶を 欠かさずに行っていた。。と

叔父さんが この作文の中で“ 証言 ” しております (・∀・)

 

この続きをまた

後日に書かせていただきます

ご清聴 ありがとうございました m(_ _)m

 

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Have a nice day !

どうぞすてきな一日を